2015年11月29日日曜日

小説は牡蠣フライ?

村上春樹は小説を書くことを牡蠣フライを作ることに比べました。

村上春樹さんの執筆の極意「一人牡蠣フライ」

2015年11月29日 23時49分 (Yomiuri.co.jp)

東日本大震災後、福島県郡山市出身の作家、古川日出男さんの呼びかけで始まった文化行事「ただようまなびや 文化の学校」が28、29日、同市で開かれ、作家の村上春樹さんが参加した。
2日目の29日、ジーンズ姿で聴衆の前にサプライズ出演した村上さんは、自作の短編「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を朗読し、「想像力」をテーマとしたディスカッションに加わった。小説執筆中の孤独な気持ちについて、妻は嫌いだが自分は好物の牡蠣かきフライを台所で一人で揚げ、食べる「一人牡蠣フライ」の心境にたとえた。
 さらに、自分が好きで孤独に揚げる牡蠣フライと同じように、「小説は誰に頼まれて書くわけではない」として、執筆中も「今、僕は牡蠣フライを揚げている」と思うと肩の力が抜けると話した。その上で、「もし小説をお書きになるような機会があれば、牡蠣フライのことを思い出してください。割に力が抜けて、すらすら書けると思います」とユーモアまじりに語った。
 記事を全部読みたい方はここを見てください:http://www.yomiuri.co.jp/culture/20151129-OYT1T50073.html?from=ytop_main8

2015年11月28日土曜日

「蜘蛛の糸」について

この前、私たちは芥川龍之介のとても有名な「蜘蛛の糸」という短編小説を読みました。この短編は大体お釈迦さまと犍陀多の話ですが、蜘蛛もちょっとだけ出てきます。それから、私は文章の中で、作者がお釈迦さまと犍陀多の心理や行動の変化を通して、世界で存在しているルール、そしてそのルールが決める善念と悪念の結果のことを討論して暗示していると思います。
でもそのルールの標準が私を迷わせました。まず、犍陀多は蜘蛛の命を救うではなく、それを殺すことをやめることをしただけです。これは善行だと言うなら、可笑しくないですか。それに、少しだけ寛容をあげるでもいいですけど、直接彼を地獄から放すのはちょっと優しすぎじゃないでしょうか。死刑から死刑執行猶予とか無期懲役に変えるなら、合理だと思いますが、直接放免させることは矢張り不自然からです。それから、犍陀多は付き人を止まるため叫んだだけで、何の実際な動きもしなかったです。また、蜘蛛への恩は犍陀多自分のことなんです。立場がないから、元々も他の人の分がないはずでしょう。それでも犍陀多が悪行をしたと言われますか?
更に、犍陀多に対する処理は誰が決めたことですか。この世に自然に存在している規則、或いはお釈迦さまですか。自然のルールだったら、人の善悪や是非と言えないでしょう。全ては運命のお導きですから。でももしお釈迦さまが決まるなら、どうやってその方の決定の善悪を存じ上げますか。犍陀多が他人への「悪念」ために地獄に戻されました。ならこの犍陀多に悪い決定をしたお釈迦さまの「念」と言えば、実は何でしょうか。
まだ沢山疑問があります。例えばどうしてお釈迦さまが蜘蛛の恩返しを決めすとか二人と新しい蜘蛛との新因果とか、字数が超えたからここで止まります。何か間違ったところがあったら、私を許して下さい。

2015年11月15日日曜日

蜘蛛の糸とゼルダの伝説!

京都で会った友達が説明してくれた事は、私の好きなビデオゲームシリーズに蜘蛛の糸の言及がある。

ゼルダの伝説:スカイウォードソードに古の大石窟と言うダンジョンが会って、その所で二階に蓮池があって、壁は金色だが、たくさん蜘蛛を戦わなきゃいけない。




一階に血の池があって、針の山のような事もある。





でも一番大切のはもちろん蜘蛛の糸だよ!この所に糸をたぐり登ると、怖い化け物が現れて後ろにたぐり登る。二階に戻りたかったら、早く登らなきゃいけない!

このビデオに見えます:https://youtu.be/mCwx4WLgpyM?t=2246

2015年11月11日水曜日

川端康成の二つの短編のこと

先週、私たちは川端康成の二つの短編、「写真」と「心中」を読みました。彼の短編は、前読んだ作者の作品と違って、何か愛に対する感じを読者に伝えるために文章を書いたようなイメージが残りました。
まず「写真」は、男が過去の恋人と一緒に撮った写真を見ながら、昔の思い出を回想して、複雑で矛盾する心理を抱く話です。突然彼女を美人だと発見して、ずっと彼女がこの写真を見る時の反応を想像するという表現は、実は愛がまだ消えていないことの証明じゃないでしょうか。そして最後川端が使うあのダッシュは、色々な意味が隠れていると思っています。想像の中で生まれる彼女の「私」に対する印象は、実は「私」が彼女にどの程度の好感を持っているか、ということでしょう。これを隠すのは、あるぼんやりする美感があります。
一方、「心中」はちょっとおかしい話を描いています。どうして妻は夫を嫌って家から逃げたのに、彼の手紙を読んだらあんなに嬉しくて、何の指示を聞いても、最後に自分と娘の命を絶つのでしょうか。やはりそれぐらい恨みがあるなら、それぐらい愛があるということですか。その感情は重すぎて受けられないので、三人が全員死んでしまうかもしれないかと、私はずっと考えていました。

2015年11月7日土曜日

「キッチン」の映画についての感想

私は「キッチン」の映画を見た後、ちょっと疑問があるところがあります。それは主人公の御影を持っている小説と違う態度のことです。まず、小説の最初で、御影は孤独で絶望な心情を持っていて、毎日何もしたくない、家で寝て家族との思い出をずっとリプレイしました。その気持ちはきっと深くて、雄一の家に行く時にもまだ続いているでしょう。でも映画の中で御影の気持ちは回復し速すぎじゃない?彼女の楽しくキッチンをチェックして、雄一のお母さんと挨拶をする行為は、そしてそこであった愉快な日常も、私にとって何か理解できない部分があります。
更に、映画の御影に対して、雄一の彼女と会う時の表現や態度も少々不自然だと思っています。小説の中ではこのシーンがないから、その情景に関する表現は全て映画の監督の考えでしょう。しかし私は御影の雄一の彼女への対応は、ちょっと当たり前すぎじゃないかと思っています。彼女がいる男の家に住むなんで、元々は他人に迷惑をかける可能があります。正常な女性だったら、自分の彼氏の家で分からない女が住んでいると分かるなら、きっと怒って事情をちゃんと分かりたいでしょう。どうして御影はそんなに堂々として自分はかわいそうだからその家で住むことを許可をもらうはずなんだと言いますか。
この二つの情景は私が理解できない小説と映画の違いです。何か間違ったことがあるなら、どうぞ気にしないで許して下さい。

2015年11月4日水曜日

「キチン」

「キチン」の映画は楽しかったと思います。でも、小説と違うと思います。小説はちょっと悲しいです。映画は悲しいじゃないそうです。もちろん、映画の全体を見ました。私は主人公達が好きだった。由一とみかげの関係は可愛いと思います。そして、絵里子はすごく楽しかった。実は、映画や小説の中でトランスジェンダーの人がいることはいいと思います。そんな人はもっと暴露が要ります。それから、「キチン」はいい小説と映画だと思います。

2015年11月3日火曜日

キッチン:映画と小説の差別についての感想


有名な小説を映画化するのはよくあることです。
でも、小説の中でいろいろな描写で作った主人公に相応しい役者を選ぶことはいつも難しいことです。残念ですが、私にとって、この映画の中で、その問題を超えられないでした。まず、その問題を示すのは桜井御影ーーヒロインの選択です。私のイメージの中で、御影はずっと憂鬱な感情と現実への怖さを持っている、客観的に言うなら、とても違和感がある女の子だと思います。それはたぶん、私は先に中国語の方を見たかもしれない。中国の方の御影はいつも寂しいな表情をしています。でも、その映画中の彼女はいつも楽天的な、優しい笑顔を持って、嬉しそうに見えます。この点について、彼女はその憂い「桜井御影」を私の目の前に連れてくれないだと思います。
そして、吉本ばななの「キッチン」の一番特別な描き方をいうなら、私は第一人称と思います。ほかの作家と違って、吉本ばななはずっと「私」を使って、主人公御影の視点からこの世界を見て、話を進めます。でも映画になると、そんな「主人公と一緒に経験する」の感じが弱くなりました。もちろん、原文と同じ、映画の御影もセリフでいろいろな少女風の言葉を使って話します、例えば、ジュースを作るときの「マジックみたい」のような明るい言葉だとか。その点について、映画もその若い少女の悩みと苦しみを示しました。



Xinyu Zheng かず

「金閣寺」について

(Xinyu Zheng かず)

個人的な意見を言うなら、私はあんまり三島由紀夫を好きではない。政治の理念はともかく、彼は家族を捨てて、考えずに大袈裟な方法で切腹することは、私をびっくりした。私に見ると、その「金閣寺」は彼の個人の政治的な理想を示すため、文学を利用して書けた作品だ。彼は主人公の身で、自分の理想を、不現実な幻影の影響を受けて、想像した金閣寺に比喩し、その理想への憧れを読者に届きたい気持ちを書けた。私にとって、文学は自身の魅力があって、もっと深いものがある。政治を表見するとか、政治を紹介するでもいい、でも、文学はけして政治の傀儡ではない。