2015年11月28日土曜日

「蜘蛛の糸」について

この前、私たちは芥川龍之介のとても有名な「蜘蛛の糸」という短編小説を読みました。この短編は大体お釈迦さまと犍陀多の話ですが、蜘蛛もちょっとだけ出てきます。それから、私は文章の中で、作者がお釈迦さまと犍陀多の心理や行動の変化を通して、世界で存在しているルール、そしてそのルールが決める善念と悪念の結果のことを討論して暗示していると思います。
でもそのルールの標準が私を迷わせました。まず、犍陀多は蜘蛛の命を救うではなく、それを殺すことをやめることをしただけです。これは善行だと言うなら、可笑しくないですか。それに、少しだけ寛容をあげるでもいいですけど、直接彼を地獄から放すのはちょっと優しすぎじゃないでしょうか。死刑から死刑執行猶予とか無期懲役に変えるなら、合理だと思いますが、直接放免させることは矢張り不自然からです。それから、犍陀多は付き人を止まるため叫んだだけで、何の実際な動きもしなかったです。また、蜘蛛への恩は犍陀多自分のことなんです。立場がないから、元々も他の人の分がないはずでしょう。それでも犍陀多が悪行をしたと言われますか?
更に、犍陀多に対する処理は誰が決めたことですか。この世に自然に存在している規則、或いはお釈迦さまですか。自然のルールだったら、人の善悪や是非と言えないでしょう。全ては運命のお導きですから。でももしお釈迦さまが決まるなら、どうやってその方の決定の善悪を存じ上げますか。犍陀多が他人への「悪念」ために地獄に戻されました。ならこの犍陀多に悪い決定をしたお釈迦さまの「念」と言えば、実は何でしょうか。
まだ沢山疑問があります。例えばどうしてお釈迦さまが蜘蛛の恩返しを決めすとか二人と新しい蜘蛛との新因果とか、字数が超えたからここで止まります。何か間違ったところがあったら、私を許して下さい。

1 件のコメント:

  1. 仏教についてもそんなにいっぱいな感想がありますね。色々な考え方で考えたら、文学は確かに面白いです!

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